典論』(てんろん)は、魏の文帝(曹丕)が著した文学論、文学書。全5巻、100篇。魏の明帝下(曹叡)の代に刊石されたが、裴松之の時代(南朝宋)はまだ存在していた。その後、『太平御覧』の引く『戴延之西征記』によると典論の石碑は六碑あったが、東晋末には4つ存在し2つが無くなっていた。唐代に石本はなくなり、宋代に写本も散逸した。現在見ることが出来るのは、『文選』に収められた「論文」篇だけだが、『全三國文』は『典略』等から典論を復元し、19篇(内、篇名があるのは13篇)を収めている。

逸話

崑崙山(こんろんざん)の峰は地の頭にあたる。ここは天帝の下界における都なので、弱水という深い川によって外界とさえぎられ、炎を噴き出す山に周りを囲まれている。山上に住む鳥獣や草木の類は、皆火炎の中で生まれ、成長して行く。そこでここには「火浣布」(かかんぷ。火で洗う布)という布地を産するが、それは山の草木の皮や繊維でか、あるいは、鳥獣の毛で作った物である。

漢の頃、西域からこの布地を献上して来たことがあるが、その後長いこと見られなかった。ところが、魏の初め頃になって、人々はそのような布が存在しないのではないかと疑問を持った。文帝(曹丕)は、だいたい火の性は容赦なく焼き尽くすものであって、生命の気を残す余地など無いはずであると考え、『典論』でこれがあり得ないことを論証し、もの知りの聞きかじりの智識を否定した。

さらに明帝(曹叡)が即位するに及び、三公に対して、「先帝(曹丕)が著わし給うた『典論』は不朽の格言である。これを碑に刻み、霊廟の外及び太学に建て、石経と共に永く世に示そうぞ」と詔を下した。ところがそこへ、西域の使者が火浣布で作った袈裟を献上して来たので、石碑に刻まれた『典論』のこの部分は削り取られることになり、天下のもの笑いとなったのであった。

脚注

参考文献

  • 『隋書』經籍志(卷三十四)
  • 『新唐書』藝文志(志 第四十九)
  • 『三國志』魏書文帝紀
  • 『捜神記』卷十三
  • 『三國志』魏書齊王芳紀注(三少帝紀注)
  • 『太平御覧』
  • 『三國志』魏書IV 方技伝 第二十九

関連項目

  • 文章経国

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「典」の書き順・筆順と書き方

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